自覚しない差別の難しさ

ワナブルのアカウントに連結したブログでこれを言うのはいささか恐縮であるが、5月頃から本格的にセブチにはまっている(Wanna Oneが最優先なことは変わらないので安心してください)。

 

seventeenは毎週月曜日にgoing seventeenという30分前後の番組をyoutube上で公開していて、ここ最近の私は毎週楽しみに当該番組を視聴している。これがなかなか面白い。

 

昨日も例にもれず当該番組が公開されたわけだが、ここである問題点が浮上した。番組の中であるメンバーが歌った曲が、どうやら差別的な意味を含む曲であるとして元々海外で有名であったらしく、少々問題になっているのだ。

 

 

その曲が、Norazoの「カレー」という曲である。

 

我らがジフンちゃんの事務所の先輩歌手の曲(2010年発表)であり、この曲自体韓国では非常に有名だそうである(私は昨日初めてこの曲の存在を知った)。アイドル本人も、そして番組の編集者も気づかずにそのまま番組として流してしまうほど、韓国国内では「人気曲」として捉えられており、そして「人気曲」以外の捉えられ方をしていなかったようである(SNSでの反応を見る限り)。

 

しかし、歌詞の内容はある意味インド文化をバカにしているとも受け取られかねない内容であり、しかもMVでは顔を黒塗りにしていたのだという。この内容から、韓国国内の人たちはあまり気づいていなかったようだが、この「カレー」という曲は以前からインドなどでは差別的な曲だとして(一部が誤訳されたというのも原因の一部にはあるようだが)広まっていたらしい。

 

 

そして、ここにきて、有名アイドルが本来の意図とは違うところで触れてしまって、少々騒がれている、というわけだ。

 

差別に限らず、少々ポリコレ的にやばいものは私の短いKPOPファン歴の中でも、幾度となく騒がれていた記憶がある。アイドル本人の名誉のために名前は挙げないが、日本との関係でも騒がれたアイドルが何人かいたと記憶している。

 

 

アイドルにまつわるコンテンツと所謂ポリティカル・コレクトネスについて、欧米及び東南アジアでの長期滞在経験がある日本人として、少々思うことがあるので、書いてみようと思う。

 

 

メタ的視点の欠如から生じる被害意識もある

本題に入る前に少しだけ私の経験の話をさせてもらいたい。

幼稚園の時にいたアメリカでは、正直差別がどうとかを考えるほど脳が成熟しているわけでもなかったし、そこそこ人種的に多様な学校に通っていたので(先生はハイチ人であったし、生徒の3割はヒスパニックであった)、あまり何かアメリカで差別されたという記憶は正直ない。

 

次に引っ越したシンガポールで、初めて少し国と国との違いによる居心地の悪さを感じたことがある。シンガポールで通っていた学校はブリティッシュスクールであった。そこそこ教育のレベルの高い学校で(小学校3年生相当で分数の掛け算割り算をやっていた記憶がある)、イギリスの偉人について結構深く掘り下げて学ぶことがあった。そこである近現代の偉人について学んだ時である。その人物は子供ながらにかなりすごい人生を歩んでおり、学んでいてワクワクするような人物であったのだが、最後に「当該人物の最期は明らかにはなっていないが、第二次世界大戦の際に旧日本軍によって殺害されたという説が濃厚である」という事実を教えられたのである。ブリティッシュスクールである(ゆえに当然先生はイギリス人)上、たまたま特にイギリス人はじめ欧米人の比率が特に高いクラスにいた。周りの子供が、あぁ…殺されてしまったのか…と落胆する中、自分のせいではないのになぜか自分が当該偉人を殺したような罪悪感を覚え、なんとなく周りを見ることができなかったことを覚えている。

 

私が一番国ごとに違うことで印象に残っているのは上記のエピソードなのだが、一昨年イギリスに留学した際(念のため断っておくが語学留学ではない)にも、道端で「ニーハオ」と声をかけられた回数はかなりあったと思う。もちろん私が中国語を喋っていたわけではない。

 

 

では、私個人として、例えば日本人がいるのにわざわざ旧日本軍が何かやらかした(らしい)話をみんなの前でする学校の先生だとか、あるいはアジア人を全員中国人だと思って「ニーハオ」と話しかけるイギリス人に対して憤怒を覚えるかというと、(もちろんお勉強はしてほしいと思う一方で)憤怒の感情は湧かないのが正直なところである。なぜか。

 

あくまで私の意見だが、メタ的な視点があるからだと考えている。

 

すなわち、例えば日本人の多くは、日本人と中国人と韓国人はみんな違う(喋る言語も食べるものも、昨今のグローバル化によって均一化が進んでいるとはいえある程度違いがあることは共通認識といって差し支えないのではないか)と、当たり前のように思っているのではないだろうか。外見上はそんなに違いがなくても、少し喋る言葉を聞けば日本人であるかどうかは聞き分けがつくだろうし、ましてや明らかに日本人であるだろうと考えられる人に「ニーハオ」など言わない。だからこそ、イギリスの道端で「ニーハオ」と言われると、少し違和感を覚える人が多いのではないだろうか。

 

しかし、日本人とて、例えばエチオピア人とコートジボワール人とナミビア人の区別がつくかと言われたら、正直怪しいところではないだろうか。上記の3つの国は地理的にもかなり違う位置にある国であるし(興味のある人は地図で調べてみてほしい)、民族構成もかなり違うはずだが、外見的にも、ましてや言葉を聞いても、食べるものをみても、見分けられる日本人は割合的には少ないのではないだろうか。

日本人が「アフリカ人」とまとめているように、欧米の人々(少なくとも私に「ニーハオ」と話しかけたあのイギリス人)にとっては「アジア人(そして多くの人にとってはアジア人=中国人)」なのである。どっか遠いところにあるなんか顔が平べったくて一重が多い人たちみたいなものである。

 

 

そして、そうとしか東アジアを分けて整理できないそのような人たちに(わざわざ話しかけるほどでもないだろとは思うが)、非があるとは言い切れない。正直文化にちゃんと触れる機会もないから、ステレオタイプを直す機会もない。わざわざ差別しようと思ってそのような意識を持ったのではなく、アジア人のいない環境下でなんとなく形成されてしまった「外国の知らない人たち」に対する見方を、捨てる機会を与えられなかったのである。日本人の多くも、「アフリカ人」を整理して分ける機会が与えられていたかというと、怪しいのではないだろうか(アフリカには様々な興味深い民族がおり、本当に素敵だと思う。英語教材にはなるが、youtubeチャンネルのgeography nowが私のお気に入りである。よく見ている。ぜひ見てほしい)。

 

このように立場を変えて考えてみると、捉え方によっては差別となりうることをする人の全てが差別意識を持っていたわけではなく、あるいは敢えて差別に関して耳を閉ざしていたわけでもなく、本当に純粋に悪意なく知らなかっただけであるということがなんとなく理解できるように思える(あるいは、先の私のシンガポールでの例に照らせば、あまりにも当たり前の事実として喋る際に配慮をしようという気すら起きなかった、ということに置き換えることになるが)。しかし、こういった立場を変えて外からみてみる視点がないと、例えば日本人と韓国人と中国人を区別することができることが当たり前のように感じてしまい、逆に区別できない人に対しては嫌悪感すら覚える人も現れるのではないだろうか。

 

メタ的な視点の有無によって、嫌悪感の大小も変わるのである。

みんなが間違えるようなことを少し間違えた人に対する感情と、みんなが当たり前にできて注意していることを間違えた人に対する感情は、かなり違うだろうことからも、嫌悪感の大小が変わることはわかるのではないだろうか。

 

そしてさらに困ったことに、自分の育った文化と違う文化にちゃんと触れる機会がないと、そもそも自らのメタ的視点が欠如していることに気づかない人が多いのだ。だからこそ、意図せずして悪意なき差別に触れてしまった時、増幅された嫌悪感情を露呈してしまう。

 

そして、そこまで炎上しなくてもいいはずだった(指摘はしても燃やすべきではない)問題が、大炎上してしまうのである。

 

そもそもこの記事を書くきっかけになった最初の事件についても、まあ原曲については正直2010年代にもなって黒塗りの顔でMVっていうのは流石に勉強不足がすぎるのではないかと思わないこともないが、人種差別についての当事者意識のなさは何もこのアーティストや事務所のみに認められるものではない(そもそもこの曲が人気になるくらいである)。況や曲を引用したアイドルをや、である。

 

 

小括

最初にも書いたように、こうした悪意なき差別による炎上は後を絶たない。

 

もちろん、差別はするべきではないのは当たり前である。ここで、差別をなくすために必要なものは相互理解であると私は思っている。すなわち、「あなたはこのようなことに対して嫌悪感を感じるのか、では次からはしないようにするね」「このようなことを知らなかったのか、私のこともわかってくれるといいな」といったやり取りが増えることで、だんだんと差別表現というものはなくなっていくものだと個人的には感じている。しかし、増幅した嫌悪感情によって炎上した場合には、炎上させた側の「これは差別である・嫌だ」という感情は伝われど、そもそも差別であることに気づくような環境になかったという事実は、炎上させた側はわからずに終わってしまうのではないか。つまり、相互理解ではなく、自らの意見を押し付けた形になって終わってしまうのではないかと思う。

 

それでは、結局のところ「これは差別表現である」と主張した側も、相互理解を否定し、差別解消を妨げている、いわば同じ穴のムジナに過ぎないのではないか、と思うのである。

全くもって関係はないが昨今の保護主義的な国際情勢についても、メタ的な視点を持つことなくグローバル化を迎えてしまった人たちによるある種アレルギー反応のような現象が一因となっているのではないかと思わずにはいられない。

 

日本と韓国も何かと政治的には問題を抱えた関係の中で進んでいる。推しが少し日本について配慮のない行動をしたとしても、すぐに噛み付くのではなく、それが本当に悪意によって生じたものなのか、教育上・社会情勢上そのような偏見を持ってしまうのはやむを得なかったのではないか、自分も同様の偏見を相手に対して持っていることはないか、ぜひ考えて見てほしい。

 

無知による嫌悪感情の増幅は、何もいいことをもたらさない。

ディスパッチの存在意義と人間の闇

日韓問わず、アイドルファンをしていれば必ず悩まされるのが週刊誌であろう。

時には推しの熱愛をすっぱ抜き、時には推しの不祥事をすっぱ抜く、そんな存在であり、正直アイドルファンからしたらこんなものいなくなればもっと平穏にオタ活ができるのにともどかしくなるものではないだろうか。

 

しかし、週刊誌もビジネスである。収益化できていなければ存在しているはずがない。

ということは、どこかに週刊誌に対する需要が生じているはずなのである。

 

個人的には半公人とも言える芸能人の私生活を暴くがごとき下劣な趣味を持つものに対しては蔑みの感情を持つのだが、そんな下劣な趣味を持つ人々がなぜ生まれるのか、私なりに考えてみた。

 

 

 

視野が狭いことに気づかない人間

まずは、日本の週刊誌で取り上げられることの多い浮気・不倫問題について考えてみよう。

 

浮気・不倫問題は週刊誌で取り上げられるたびにワイドショーを賑わし、あるいはツイッターをはじめとするSNSのトレンドに上がっているように思う。そこで世間の人々が記事の内容を受けて発信していることは概ねこのようなものだ。

「奥さんがいるのに浮気するなんて気持ち悪い」「相手の女性にも失礼だ」

 

一見正当な感想である。もちろん不倫というものは所謂不貞行為として民事上の不法行為を構成し、損害賠償請求の対象となりうる行為であるし、一般的に「やってはいけないこと」とされている。被害者もいる。

 

だが、このような感想が出てくる人々の根底には、「浮気・不倫は普通気をつけていればやらないものである」という発想があるのではないだろうか。

 

世の中には様々な「業界」と言われるものがあり、どの業界にもある程度他とは違う特殊性があるだろうが、殊に週刊誌から追いかけられるような人たちの「業界」(芸能界や政界もそうであろうし、個人的には法曹界もその部類に入ることがあると思っている)は高い障壁と特殊性を有すると感じる。平易に言えば「中に入ってみないと実態がわからない」のである。

例えば、弁護士の中でも特に大手事務所に所属すると、月に300時間(土日も毎日働いたとしても1日10時間である)働くことはざらで、深夜の2時に仕事が終わることなど平常、徹夜は日常茶飯事、弁護士は毎年のように自殺者・過労死がいる、といったことを知っている人はどれくらいいるだろうか。というかそもそも法廷に立たない部類の弁護士が大勢いることを知っている人はどれくらいいるのか。弁護士といえば法廷でかっこよく「異議あり!」なんて言っている職業だと思い込んでいる人がどれだけいるか。検察が冤罪を防ぐために、決済に行くまでにでめちゃめちゃ詰めており、起訴後の有罪率の高さは決済までにありえないほどに確認しているからであるということを知っている人はどれくらいいるのか。

では、大人気芸能人がいたとして、そこに寄ってたかってくる様々な部類の人がいることはどれだけ身をもって一般の人は知っているのか。芸能人が有するあらゆる知名度を利用してビジネスに繋げようとしている人が大勢おり、実は好きな女性アイドルがやっているあのブランドも、あの人気モデルがやっているあのブランドも(この例は特に具体的な誰かを想像している訳ではないことをあらかじめ付言しておく)、同じ元締めがやっているかもしれないことを知っている人はどれだけいるか。芸能人がYouTubeに進出するときに、裏に誰がいるかと考えたことはあるか。少しでも芸能人と知り合って、芸能人を利用して上に行きたい芸能人もどきがたくさんいると考えたことはあるか。

 

「業界」の人間と、その他の人間では、そもそも生活をする上での前提、何が日常であるかという前提、どのような精神状態のもと生活するかという前提が異なることが多々ある。世の中の人が考えている「浮気・不倫は’普通’気をつけていればやらないものである」という考えの前提になっている「普通」は本当に週刊誌によってスポットライトの当たった人間に当てはまるのだろうか。

週刊誌の記事の主人公が、仕事の激しさ・キツさゆえに苛烈な精神状態に置かれてしまい、規範意識が鈍麻していた、あるいは週刊誌に取り上げられた行為をやらざるをえない状況に置かれてしまった、という可能性は本当に排除できるのだろうか。

 

もちろん、浮気・不倫だろうが、その他犯罪であろうが、社会倫理規範・法規範として存在している以上これに違反してはならないのは当然である。しかし、週刊誌で取り上げられた人を批判する者の中には、あたかも当該人と自分が同じような環境の中で生きており、同じように簡単に社会倫理規範・法規範を守ることができると勘違いしている人が多いように感じる。自分が簡単に社会倫理規範・法規範を守ることができているのは、そうした規範を犯すことを強いられない護られた環境の中にいるからではないのか、と、一度考えて見てほしい。

 

自分の生きている世界が当然だと思ってしまうのは、自分が生きているような世界しか見てきていないからなのではないだろうか。自分の視野が狭いということに、自覚的である必要があると感じる。

 

自尊心を保つ手段

次に、芸能人のスキャンダルとして比較的よくある酒関連のスキャンダルについて考えてみよう。

日本では飲酒運転はあまり見かけないが、例えば酒に酔って人を殴ってしまいました、というような事件は数年に1回くらいは見るように思う。もう少し多いかもしれない。このような時も、SNSでは以下のような感想を頻繁にみる。

「こんな歳にもなってお酒の失敗かよ」「人から見られる職業だということを自覚していなかったのか。もう少し気をつけることができた」

 

もちろん、このようなことを宣う人は仕事があまりにもキツく異様な精神状態になった人が酒のコントロールや自分の行動のコントロールなどできるわけもないことの想像ができていないという話は前述の通りである(私の周りの人間も日本の中でもトップレベルに優秀な人間だが、限界まで自分を追い込めるがゆえに酒癖は全員揃いも揃って悪く、出禁になっている居酒屋が何軒あるかしらという有様である)。

それに加えて、このようなことを宣う人の考えの根底には、「自分ですら守れる規範を守れていないなんて」という考え方があるのではないかと想像する。すなわち、記事に書かれている人をある種見下しているということだ。

 

当たり前だが、週刊誌に取り上げられるような人間は業界に関わらず記事を書くに値するだけの知名度があるはずである。そして、それだけの知名度がある人は、そもそも何らかにおいて秀でている人が多い。

一方で、週刊誌の読者にはどのような人がいるだろうか。もちろん中には何かに秀でている人もいないわけではないのであろうが、基本的には大衆の読み物である。失礼は承知でいうが、特に社会に爪痕を残すほど何かに秀でているわけではない人が多いのではないだろうか。そして、何事もなく進んでいく自らの日常に対して鬱屈とした感情を抱いている人もいるのではないだろうか。

 

週刊誌のこうしたスキャンダル記事は、そのような人に対して自尊心を満たす機会を与える。すなわち、あんなに人気者であると思われていた、あるいはあんなに秀でているあの人ですらこのような簡単な社会倫理規範・法規範を守ることができないのか、私はあの人ですら守れない規範をきっちり守って生活している、善良な市民としてえらいではないか、という具合である。

実はスキャンダル記事が自分の自尊心を満たすツールになっているという事実をわかった上で記事を見ている人はそう多くないとは思うが、見知らぬ他人の見知らぬ私生活が気になり、それに対して意見をしようなどと思っている時点でスキャンダルの内容たる行為をする人に対して物申したいという感情があるのは否定できないはずである。物申すまで行かなかったとしても、「ちょっとそれはどうなの」なんて言いたくなってしまっているのではないか。そして記事の主人公に対してそのような説教じみたことを言う時には「規範を守れている私から規範を守れていないあなたへ」と言う構図ができあがるのである。自分が少し上の立場から発言することで、結局は自尊心を満たす恰好になっているのである。

 

 

ささやかなまとめと注記

ここまでの議論を踏まえた、私なりの週刊誌に対する需要の発生要因は、以下の通りである。

すなわち、自分と「人の前に立っている人」が同じように簡単に社会倫理規範・法規範を簡単に守れる・守ることができる環境にあると勘違いしている人が、自らが何者でもなく変わらぬ日常を送っているというある意味屈辱的な事態によって傷ついた自尊心を癒すために、一見守るものが簡単である規範を守れていない「人の前に立っている人」を見て楽しむ、というものである。

 

人の前に立っている人の才能を見上げつつ、自らは何者でもないことを自覚した上で淡々と努力する、そんな人が増えればいいのにな、と思っている。もちろん人間様々いるので全ての人間がそうなることは不可能なのはわかっているのだが。

 

さて、ここまで言うと私があたかも不貞行為を働く人や犯罪を犯す人の一部を擁護しているように思う人もいるだろうから、念のため注記しておく。

重ね重ねにはなるが、社会倫理規範および法規範に違反してはならないことは言うまでもない。ここで述べているのは規範に違反しないと言う所謂’規範に対する反対動機の形成’が少し困難になっているだろうという程度であるし、記事に取り上げられた人と同じような境遇にある人で規範に違反していない人はたくさんいる。規範に違反した人が非難に値するのも当然である。ただ、そうした非難は同じ前提を共有する人の間で行われるべきであって、外野が口を出すべきことではないと考えている。週刊誌の記事を読んで批判する人の大半は別業界・外野の人間であり、前提を共有している人間ではないだろうから、そうした批判をする資格はないというのが私見である。

 

あくまでも私の考えだが、これはアイドルファンについても同じであって、自らがアイドルではない以上アイドルファンにもアイドルを批判する資格はあまりないと思っている。時々金銭を払っていることを理由にアイドルに対しいちゃもんをつけようとする人がいることを承知しているが、金銭を払うというのは提供された商品に対して対価を支払うという売買契約を締結したという意味しか有さず、かかる契約の範囲を超えて(つまり提供されたCDなどの商品の質が悪かったとかそういった範囲を超えて)アイドルに対して何か要求ができるという意味はない。強いていうなら事務所の株主になれば何か注文する資格はあるとは思うが、事務所の株を持っているファンは(少なくとも日本には)あまり多くないように思う。

 

余談 〜アイドルの恋愛と競争社会〜

アイドルの恋愛

アイドルが熱愛をすっぱ抜かれると必ずや言われることの一つが、「そういう職業だってわかっていてなったんだから恋愛はするな・恋愛をするなら最後まで隠し通せ」というものである。

個人的にはこの意見に激しい違和感を感じる。韓国において多くの人がアイドル練習生として生活を始めるのは小学校高学年から高校生までの間だと考えられる(し、日本においても例外はあるが概ねそんなところだろう)。正直いって高校生以下の子供が、自分の判断が十数年後にどういう副作用を与えるかまで判断して練習生になっているとは思えないし、そのような重要事項の判断を責任を持って行う能力があるとも思えない。そもそも未成年は民法上も制限行為能力者で、例外はあるものの原則的には未成年者が締結した契約は法定代理人が取り消すことができるとされているくらいだ。

法律上も正常な判断能力がないという前提で制度が構築されている者がなした判断に対して、しかも恋愛という人によっては人格の根幹に関わる事項につき責任を取れというのは、随分と想像力を欠いた言い分だなと感じる。

 

「最後まで隠し通せ」という言い分ならまだわからなくもない。恋愛すること自体を禁じていないからだ。がしかし、そもそも熱愛が発覚するのも大半は週刊誌経由であって、本人がわざわざ公表した例は少ないはずである。そうすると、「最後まで隠し通せ」という言い分はすなわち「週刊誌にバレないようにしろ」という内容だと考えることができる。では、「週刊誌にバレないようにしろ」と言っている人たちは、どのようにしたら週刊誌にバレないか、具体的に想像がついているのだろうか。外で会わなかったらバレないのか?本当に外で会わないようにすることができる環境にあったと断言できるか?自分が尾行された経験があるという前提でそのようなことを言っているか?そうでなかったら、「最後まで隠し通せ」という言い分も、アイドルに対して恋愛をすることを許しているようで実質的には上に書いたような、判断能力が未成熟である者に対してその判断の責任を取ることを迫るがごとき主張になっているのではないか。

 

抑圧した環境下に置かれてしまうと、ふとしたことで感情が暴走し抑えが効かなくなることはよくあることだと思っている。私のいる業界でも、不倫は本当に多い(擁護する趣旨ではない)。ちゃんとした判断能力を有した上で進路を選択した人がこの有様なのであるから、未成年のうちに進路を選択した人は本当に辛いだろうなといつも勝手ながら思いを巡らせている。

 

競争社会

アイドルは競争社会であるとよく言われているし、アイドル本人がそのようにいう場面もよく目にする。例えば私の業界にいるような、そもそも遡れば小学生の頃から偏差値でバトルするのが大好きで、いつ何時も誰かと戦闘し続けられるような戦闘民族であればこのような競争社会でも乗り切っていけるのだろう。胸を張っていうべきことではないが私もどちらかというと戦闘民族の部類に入ると自覚している。今までの試験の点数バトルはいつでもふっかけてきてくれと思っている(違う)。

しかし、アイドルを目指す子、あるいはひょんなきっかけでアイドルになることになってしまった子に戦闘民族がどれくらいいるかは疑わしい。そもそも歌だったりダンスが好きで入ってきたり、単純にスカウトされて流れでそのままいる子もいるだろうからだ。

どちらかというと戦闘民族である私ですら、競争社会には辛くなることがある。特に、自分より上の人間ばかりに囲まれていると、自分の不甲斐なさに落ち込むことはしょっちゅうである。戦闘民族でない人ならなおさらしんどいだろうと思う。常に他人と比べられ、確固たる数字で成績が出ることも多く(音盤の売り上げやチャート成績など)、誰が上で誰が下かがはっきりとわかってしまう。努力してはいるものの、どの方面の努力が足りないのかイマイチわからない。どこに目標を設定すべきなのかから悩むこともあるかもしれない。後半はもはや私の想像でしかないが、とにかく戦闘民族でない人が競争社会の中で生き続けることがいかに辛いかということは身を以て感じているつもりだ。しかも、一度進路を選んである程度まで進んでしまったら、戻ることはできない状況に追い込まれている。そしてその進路を選んだのは、判断能力が未成熟である過去の自分である。

 

最近アイドルの精神的な辛さが表出することが多いように思う。もちろん悪質コメントはその辛さの大きな原因となっており、取り除かれなければならないことは確かなのだが、競争社会というアイドル社会の性質そのものも、世間が思っているより大きい辛さのファクターになっているのではないかと感じる。チャート成績だったり音楽番組の賞だったり、何かと「成功」のベンチマークが多い韓国の音楽業界であるが、ベンチマークの多さは比較のしやすさ、そして他人と自分を比較することによる辛さの感じやすさに繋がる。もう少し賞を減らして競争度が減る、数字のつかない感性で楽しむ娯楽としての音楽・踊りの側面が増えればいいのになあと思っている。